未だ能登半島からは厳しい毎日の様子が伝えられてまいりますが、皆様如何お過ごしでしょうか。

節分も明けた今年の2月上旬の朝、京都新聞の記事に釘付けになった。
「真宗大谷派が所有する寺院跡(旧了徳寺、上京区)で長期入院する子どもに付き添う家族向けの滞在施設「ドナルド・マグドナルド・ハウス京都(京都ハウス)」が新設されると1月中旬に発表された。だが、この境内地は鴨川沿いの好立地ながらも、さまざまなトラブルを抱えて活用が進まず、近年は「市内最大級の廃屋」とも呼ばれた。お寺の関係者は因縁をどう受け止め、乗り越えようとしたのか。関係者の一人である元弁護士会会長の・・・(略)・・・、40年に及ぶ曲折とは。」で始まっていた。


「了徳寺の流転は、住職の河邊賢立さんが亡くなった1997年に始まる。同寺が属した真宗大谷派は当時、女性の住職を認めていなかった。後継ぎのいない寺をどうするのか。妻の桂さんと一人娘の立子さんは対応に追われた。

門徒は市内の三つの寺に預けられた一方、境内をどうしてゆくか、2人に重い課題が残された。敷地は今出川通と鴨川に面した一等地にあり、広さ約5000平方メートルに及ぶ。86年立子さんが就職で東京へ転居すると、桂さんが1人で住むことに。手入れされなくなった境内の周りには不動産ブローカーが出没し、・・(略)・・桂さんは門を閉ざして暮らし、97年には立子さんのいる東京に移住した。2人の願いは、宗教法人の清算だけではなかった。境内地は江戸時代の伏見宮邸跡ゆえ、『個人が持つべきではなく、公に返したい。京都御苑と鴨川の三角州の間にあるので、生き物の渡り道となる自然豊かな公園になれば』。この思いに共鳴し、報酬のめどなく支援に乗り出した弁護士の3人はいずれも女性だった。

しかし、道のりは困難を極めた。門徒や役員は実質おらず、法人の登記は古いままで、解散を議決できない状況にあった。法に基づき解散命令を出してほしいと行政に持ちかけても「簡単に職権を発動できない」と言われた。「私たちが門徒になって法人の体制を作り直し、自主的に解散するしかない。2001年、門徒会の準備会を立ち上げた。
翌年、真宗大谷派の京都教務所から思いも寄らない提案がなされた。「今は女性も住職になれる。立子さんが継ぐのはどうか」。定年退職を控えた立子さんは、寺を継ぐことを念頭に得度。了徳寺の再起へ歩み始めたはずだった・・・。
だが、立子さんは06年、乳がんで他界。57歳。桂さんも翌年に息を引き取る。残された門徒会が2人の遺志をくみ、法人を解散、跡地を処分しようとしたところ、寺の乗っ取り騒動に巻き込まれてゆく。

 ・・・<略>・・・。

17年、了徳寺はようやく宗教法人として解散に至る。土地は協議の結果、19年に真宗大谷派へ寄付された。『京都府と協議し、自然を守りながら公益事業に利用』を条件にしたところ、跡地の一部に京都ハウスが26年にオープンする運びとなった。

跡地は「設計図を描いていない大手建設会社がない」と言われるほど不動産業者が手に入れたがり、ゆえに売買詐欺の舞台となって逮捕者まで出たりした。怪文書が出回り、嫌がらせも絶えなかったが、なぜ、旧了徳寺に関わり続けたのか。
「桂さんと立子さんは生活が厳しいにもかかわらず、『土地から私的利益を得てはいけない』『公共のために使われるべき』と考えていた。立子さんは私たちと同年代で、寺の重みと娘に依存がちな母を1人で背負う姿を見てきた」
寺を守ろうと苦悩した母娘がいて、遺志を継いだ弁護士や僧侶らによる橋渡しを経て、廃屋が生まれ変わろうとしている。」で終わっている。

さて、終戦となり戦地から戻った私の父、正一と母フミ、父の16歳年上の姉、静枝の3人は蛸薬師通に面して河原町を2軒程西に入った店舗を借りて小さな寿司屋を開店させた。1年後、予期せぬ大家さんからの申し出で、その賃貸の店舗から出ることになり、大慌てで新しい店舗を探す事となった。漸くみつかったのは、河原町通の四条を上がった西側でお寺さんの敷地の東南の一角で既に喫茶店があったが、ほぼ休んでいてお寺さんの賃貸ではなく売買でという条件。1年前からの営業の様子をご存知の檀家さんもおられたようで、問題なく新たに寿司屋「ひさご」を開店させることが出来たと聞く。
そのお寺が了徳寺である。お寺はご住職の賢立氏、奥様の桂さん、ご住職のご母堂、そして私の1歳下のりっちゃんの4人家族で、親しくお付き合いさせていただいた。「ひさご」の裏は、お寺の縁側に続いていて境界線がどうなっていたのか、店の若い子がお寺の大きな石碑に引っかけて椎茸を水洗いした竹の笊を干したり、随分罰当たりな事も私は見かけた。その頃の店頭の写真には、了徳寺さんの木の柵が写り込む。

お寺という職業で、物静かな優しい笑顔で接して下さるご家族だった。お寺の広い濡れ縁や庭がりっちゃんと私の遊び場で、数年後、了徳寺さんが上京区の河原町今出川に移転されるまで続いた。うっすらではあるが何度か今出川のお寺に伺った記憶はある。今出川のお寺の前をバスや車で通る度に「どうなさっているかなあ」と思うだけであった。

そしてこの新聞の記事である。過酷な年月を過ごされた中でも志を守ってこられた事に感動する。今、ひさご寿しがあるのも了徳寺さんにご縁を戴いたからこそである。もう少し早く女性の住職が認められていたら、もしも病の早期発見が出来て復帰されていたら、と悔しい思いはあるけれど今は、静かに合掌するのみである。